TEL&FAX0799-32-1212
メールでのお問い合わせ

紀繍乃や きしのや

新着情報
HOME > 新着情報 > 退治物の高欄掛け

退治物の高欄掛け

2017.06.04

兵庫県高砂市の戎町様から、年代物の貴重な高欄掛けをお預かりいたしました。

この後、当店で大改修の予定をしております。

 

本作品は、姫路 白濱区(現・白浜町)の『麦本』が制作したもので、昭和58年ごろに購入されたそうですが、制作年代は不明です。

図柄は退治物で、姫路の「絹常」の下絵が元になっています。非常に細い糸を使用し、すばらしい高度な刺繍技術で表現されています。

 

刺繍の各所の張り出し方が淡路の「浮きもの刺繍」の影響を受けているところや、また人物の鎧の「しころ」の縫い方や 張り出し部分の下地に厚紙を使用し、撚金で刺繍するなど淡路の「大歳」の作品に非常に酷似しています。このことから推測すると、麦本が大歳に刺繍を発注したか、あるいは大歳に勤めていた絹常出身の刺繍職人が昭和30年頃に大歳が廃業した後、麦本に移り制作した高欄掛けだと思われます。また淡路市一宮町の「中村」の布団だんじり は、大工が大歳、刺繍が麦本という珍しい組み合わせがあり、大歳と麦本は 何らかの繋がりがあったと思われます。

 

※『麦本』のもともとの家業は大工で、何人かの刺繍職人を雇っていた為、年代によって刺繍の作風が異なっています。

 

~図柄の解説~

『六孫王経基、龍退治乃図』

〇六孫王経基 ろくそんおうつねもと (?~961年)

清和天皇の第六の皇子、貞純親王(さだすみしんのう)の子であることによって六孫王の名がある。清和源氏の祖。承平二年(932年)の秋の頃、貞観殿の築山に大きな牝鹿が現れ、血を注いだような眼で御殿に飛び入らんばかりの様子であった為、射芸に達した経基が鏑矢を放つと、矢は違わず鹿の頭を貫いた。

※図柄は、鹿を龍に転じたと考えられている。

龍

龍2

 

 

 

『加藤清正、虎退治乃図』

〇加藤清正 かとうきよまさ (1562~1611年)

江戸初期の肥後熊本の城主。豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳(しずかだけ)七本槍(しちほんやり)の一人に数えられる武将である。

関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主となる。

(1592~1598年)海を渡り、文禄・慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)において「片鎌槍」(かたかまやり)での虎退治の逸話が有名である。

とら

虎2

 

 

 

『隠岐次郎左衛門、怪鳥退治乃図』

〇隠岐次郎左衛門 おきのじろうざえもん (1305~1369年)

建武元年の秋、都に疫病が流行し、内裏の紫宸殿(ししんでん)の上に怪鳥が現れて「いつまで いつまで」と鳴く。

左大臣 藤原時平に仕えていた隠岐次郎左衛門が勅命を受けてこれを退治したとされる。後にこの怪鳥をその鳴き声から

「以津真天(いつまで)」と呼ぶようになった。

鷲

鷲2

 

 

 

『西塔鬼若丸、怪魚退治乃図』

〇西塔鬼若丸 さいとうおにわかまる (?~1189年)

平安末期の僧兵。源 義経の郎党。武蔵坊弁慶が稚児であった時の剃髪前の幼名。比叡山の西塔に預けられていたため、西塔鬼若丸の名で呼ばれていた。錦絵「十六武蔵坊」の説明文によれば、鬼若丸は比叡山の池に住む怪をなす大鯉を一人で退治したとされる。

鯉

鯉2

ページの先頭へ